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「町」と出張くらげ

 わたしはわたしのなかに、心臓のような、言葉を持たない、なつかしい動物がいるということを、時々思い出しては安心する。
 盛田志保子『五月金曜日』 晶文社



 京都で合宿があってその一週間後に東京へ行ってきました。去年の1月以来かな。なつかしい人たちにたくさん会えて嬉しかった。東京駅の煉瓦の建物の地肌がちらほら見えていた。東京はどう考えても生活する所ではない、あそこでみんな暮らしているなんて嘘だなあと思った。

゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆

 夜行バスで早朝に東京駅に着いてとりあえずすることも居座る場所もないので新宿へ。東京駅の地下にあるプリキュアプリティストアの開店までその辺で待っていられなかったので前だけ素通り。帰りも結局閉店までに寄れなかったのでまた次の機会に。
 新宿についたあたりから風が強いのなんのって強かった。気温はコートがいらないくらいだったのだけれど春の突風がごうごう吹いていた。新宿御苑を歩こうかなーとも考えていたけれど断念。ネットカフェとファーストキッチンと京王百貨店の屋上(こんな風なのに琉神マブヤーショーを決行していた)を経て、東口で待ち合わせ。新宿ダンジョン外から回ればこわくない。
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オーディオ台の雛人形

春の雪地に触れず消え濡れて往く吾も現象の一つにすぎず  富小路禎子『柘榴の宿』



 今年の目標と年末年始のことを書こうと思います。

 大晦日に年越しそばを啜りながら、なんだか大層イベントっぽい起伏がある風に見えるけどそれは見せかけで、本当はいつもと変わらない午後10時とか11時とかなのだよなあ、と意図して冷めようとしていた。冷徹になるという意味ではなくて、ここで無為に波風を立てるよりはカームダウンしていた方が長い目で見たら楽だよなあ、という自衛策を取っていたわけであって。年末年始に祖父母の家へ行って従兄弟一家も来ていて、となると、他人といるより安穏と過ごせる一方で、家族の中だとみんな遠慮がなくなるからけっこうハイにもなってしまう。そういうのに振り回されると新年の幸先が良くないよなあと思うように最近はなったみたいだ。ああまた一日がすぎて次の日が来るなあ、という構えでいたほうが、トータルではつらくない。
 考えてみると1月は結構苦手な月で、どうしてかと言うと暦の上での境界をまたいだことでなにか一段落した気になって油断しているところへ、すぐに冬休みが明けてそれはもう退っ引きならない現実へと放り出されるから、だと思う。かと言ってあまり先のことを考えすぎるのもやっぱり良くないなあ、ともまた思う。このごろ折に触れて松岡修造はえらいなあと思いもする。記憶が曖昧なので正確な引用ではないけれど、「過去のことを思っちゃダメ。未来のことも思っちゃダメ。今ここを一生懸命生きていれば、生き生きするぞ!」というのは、蓋し名言である。言い回しそのものというよりかは、これに抜群の説得力を持たせる人物像がすごい。どうして松岡修造を褒めているのやら。暦は人を宗教的にさせる。とにかくたぶん今の僕の課題としては、日常にソフトランディングすることが大事だよなあ、というのが言いたかった。
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肩に乗っかっているもの

あの花は、乗っかっている――とそれだけで今はいいので、私は私の小でまりに、そのことばをもらったのだとおもう。そのことばしかくれないのなら、それがつまり紛れもないその花だという証拠ではないだろうか。私にとっては「乗っかっている」がたしかにあの花なのであった。こういうとき私は上機嫌になってしまう。もらいものは嬉しい。
  幸田文「白い花」/『雀の手帖』新潮文庫



 相変わらず自分は自分を裏切ってばかりなので(受動態では書かないぞとここで肩に力が入る)、その裏切った結果前に進めていなくて、もう期待したくない、そこからもう一段階悪化してなにもしたくない、にときおりなったりする。だから例によって行きづまった感じが拭えなくって、大きさはともかく頻度と、そしてどんどん漠然としていくから一体どうしようかと思う。
 それで自問してみるのだけれど、一体いままで何してきたんだよって、でもその答えは知っていて、「何もしてこなかった/いない」なのだった。

 そこから動けないのはこれもまた例によって、とっかかりからしてすべて自分自身で起こさないとだめだと考えてるところだと、なんとなーく気づいてきたところ。そういうひとりよがりなのは、現象としては例によって、なのだけれど、今回はこういう言い回しを引き出してきて把握しました。
 そうそう、取り入れれば良いのか。受け取ればよいのか。
 受け取るにしても後々のことを考えて、自分はきっとだめにしてしまうから、と思って躊躇しまうけれど、とりあえず受け取る瞬間にはそういう、後ろ向きな先見の明、はどこかにやっておいたほうが良い。

 っていう暫定的な結論です。そのためにどうするかとかはまた考えます。



 今日は四月にしてはとても風がつめたくて、基本的に晴れてはいるんだけれど雲の動きが早く、申し訳程度に濡れたなーと思ったら雲のその黒いところもすぐさま去ったりしていた。京都っぽい天気だと思う。北陸だと降るときはとことん降るし、寒いときはほぼ晴れないので。
 夕方家に帰るとき、今出川通りを東にのぼっていって、白川に突き当たったところで振り向くと、呆れるほど空がきれいだった。でも呆れなかった。呆れるには万全じゃなさすぎる。呆れるにはあまりに足元がおぼつかない。
 金色も茜色も深い藍もぜんぶ含んでいて、くっきりと飛行機雲が短いのも長いのも同時多発的に思い思いの方向に伸びていって、そうして空が丸みごと、おおきな星座板みたいにずれていく感覚があった。桜の花は九割五分散ってしまったけれど、疎水べりのある一本のその一枝の先のほうに固まって咲き残ったりしていて、見苦しくない末端の意地だなあと思った。さいきんはなにもしていないのに肩が凝ってしまう。文句なしに健やかなどではないけれど、それでも空がきれいなことには変わりがなく、しかし胸を刺されて苦しくなるような美しさでもなく、なぜだか不思議にふわふわと嬉しかった。
 かかとを当たり前に一歩ごとに浮かせられたので、この感覚を覚えていたい。
 
 (きょうの写真、東向きhttp://twitpic.com/4n4asq)



 ここでちょっと宣伝ですが、京大短歌の17号が出ました!公式サイトはこちら
 トップページ右下、「お問い合わせ」のリンクをクリックしてお問い合わせください。



 さて、もう少し具体的な近況報告をすると、まず、京都の別の大学に進学した弟と暮らし始めました。
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節制と煮込みハンバーグ

わが肩に触るる触れざるゆふぐれの手があり少し泣きたい今は  小島ゆかり『ヘブライ歴』




 昨年はじめて出会ってから、この歌を折に触れて思い出して、何度も、その度に唇にのせています。

 他者が私を「かすめる」とき、その存在への希求はとりわけ大きく、急速に膨れ上がる。
 私の末端の脆い部分である肩に触れそうで、やはり触れない、今ここに現前しない「手」。
 それを思うと、夕暮れ、少し泣きたい。

 僕にとっては2010年といえばこの歌、でした(収録歌集の発行年は1996年ですが)。 



 こんにちは、秋口ぶりです。年が明けてしまったけれど、少しだけ昨年を省みてみます。



 秋が深まって2010年の終わりを意識するに連れて、ぐるぐるぐるぐると「結局この一年何も変わらなかったし変えられなかった」ということばっかり思ってた。一年前に決めた2010年の目標は「焦らないけど逃げない」だったのだけれど、振り返ってみると逃げずにやり遂げた記憶は数えるほどしかなかった。いつでも自分だけが頑張っていない気がして、そうすると足がすくむし応答不可能にもなった。でもこれはもう意志の持ち方の問題だ。不可抗力なんかじゃない。そう思うと、ほんとうはできるくせにやらない自分、を余計に責める。身動きが取れない、取りたくない。その繰り返しだった。11月くらいは特に。

 でも逆なのに。
 不可抗力じゃなくて意志の持ち方の問題ならば、無闇に他者を持ち出してきて比較して自分だけで落ち込むのは、それこそ甘えでしかないのに。なんとかできてるよって顔ばかりではなくて、ちょっとなんとかならないかも、だけどなんとかしたいって、誰かに言うタイミングは本当になかったのか。などと今さら思っている。

 でも今さらで上等かもしれない。
 焦らない、というのは、自分にとって大事なことは何度でも身をもって思い知る、ということだ。このことばを自分の中から引き出せたことだけが、去年の収穫のような気もする。

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夏の終わりと光の感受

星空のカムパネルラよ薄命を祝う音盤(ディスク)のごと風は鳴る  春日井建『夢の法則』



 帰省と居候と、予定外にまた帰省をしていたら三週間が経っていて、京都に帰ってきたらもうつくつくぼうしも鳴かなくなっていた。夏の終わりは心許なくていやだなと思う。そもそも夏はそんなに好きではないのだけれど、そのくせ夏って終わってゆくのを一番体感しやすいからよくない。目映さがとことん過剰な季節なので、過剰なだけそれが失われるときに差分が大きくて、予想と実際の感受とにどうしてもずれが出てきて。それに、子どものときなんかと違って、このところは年毎に目映さの質が違うので、慣れるってことができないのかもしれない。
 暗順応、ということばを思い出す。夏の目映さの中だと、予め目をつむっておくのをなんとなく許されないのだ。季節の持つそういう健全さは面倒くさい、と感じてしまう。好みというかもう性分だと思う。ただ、目映さの目減りが割にくっきり見えてるってことは、じゃあ目映さのピークも高かったのかもしれない、今回の夏は、ここ数年に比べたら。そうだった、前の夏なんかは往々にして手のひらで目を覆っていたような気がしてきた。だってその種の健全さをどこかで拒みたい性分なので。
 性分にしろ、でもせっかく巡ってきた季節なので、目映さに身を置くこともまあいいかもと、今はすこし思える。天秤の、傾きすぎたこれまでの側とは、反対の側に、ちいさな重りをおけた感じ。あ、それを回復って言うのだろうか。ならそれもいい、もうしばらくは。



 だけどやっぱり昼日中はあまり好きではなくて、まあ、性分なので。


 
 東京で、夏のプラネタリウムを見てきた。
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