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やおよろずまで一万歩

夕光(ゆふかげ)をふかめる貌のあなたなる明日あかときを知らで添はなむ  山中智恵子『みづかありなむ』



 基礎体力をつけようと思って一日八百字以上なんでもいいから書くキャンペーンをしています。せっかくなので書いた習作たちの中からいくつか選んでたまに載せていこうかとおもいます。衆目にさらすのだぞというプレッシャーもあったほうがよいかなって。ご笑覧!

 お蕎麦屋さんののれんをくぐる。雑居ビルの3階にある、小奇麗でおとなしくて、ほのかに白く発光しているみたいなお蕎麦屋さんだ。スープのお出汁の透明さがこれ以上なく完璧なお蕎麦屋さんだ。飲んだらだれもが恋をするだろう。ただ、それが恋だというにはあっさりしすぎている、と言う人の方がかなり多いだろう。
 今日は刻みねぎと刻んだお揚げの載った、無欠のきつねうどんに決めた。お店の人が運んできてくれるまで、身体を右後ろへひねって、交差点を見下ろして待っている。いまいる建物は北東側の角に面していて、道路を挟んで西側には、南へと向かう小川がある。繁華街を貫いて流れているのだ。ここから見る川幅の細さが、矢をおもわせた。南にはきっと海、海へと至る道はいつもまっすぐだ。山に囲まれているこの街でもそのことはなにもかわらない。盆地の真ん中の真ん中の、つまりは世界の底の中心の、この繁華街にいても、だ。
 川というのは不思議だ。そこに川があるという変わらなさを保つために、ひとときも休まずに移ろわなくてはいけない。川は水なのに、ある水の分子を追跡するともう途端にそこに川はない。かと言って川は場所なのでもない。もし川というのが場所のことなら、「かつて川のあったところ」はあまねく川になってしまう。地球は川だろうか?おそらく違うけれど、でも、もしそうなら?もしかして陸地とはかなりの大部分、ほんとうは川なのではないか。地球には海と川としかないようなもので、陸地なんておまけなんだ。
 でも、と運ばれてきたお蕎麦を見ておもう。お揚げとねぎはおまけだけどおまけではない。だからたぶん陸地もそうなのだ。お蕎麦というぜんたいに恋しているとき、お出汁と具と麺をまるで別のものと区別することはたぶんできないだろう。ぜんぶいっしょくたで、溶けていて、ぜんぶ見透かせるのだ。川の本質は、見透かせること。あるいは、その可能性へといつでも移ろいつづけることにあるのだ。きっとそうだ。
 移ろわないものは、恋ではないのだから。
2013/03/20




 今すぐ連れだして。とにかくここから連れだしてほしい。なぜって、ここは私にとって〈ここ〉ではないのだ。もう何年も住んでいるけれど、からだに巻きつく蔦みたいな違和感が消えない。川がないというのが大きい。標高が高くて、海は見えるけれど、港は遠い。斜面に張りめぐらされた迷路のような路地に、ぽつぽつと一軒家ばかりが点在している。夜、街の方からこっちを見上げると、家の明かりが毛糸のセーターの穴みたいに、ぽつぽつとかわいく灯って、それが、それだけがこの住宅街の価値だ。だから、ここにいる限り、私にとってこの場所に価値はない。
 斜面なら果樹園がいい。いつか見た映画の中で、若くて生意気な都会の娘が住み込みで働いていた。彼女は半ば家出のように放浪していて、しばらく滞在すると次の土地へ行ってしまう。私は海へいつでも裸足で出られる家に生まれ育ったから、こんな山あいには根を下ろせないのだ。本能で知っている。どうせ短い間しかいられないのだから、映画の彼女のように、たっぷりの陽射しと好意と好奇心と悪意をたっぷりたっぷり浴びて、潔く去りたい。映画の彼女のような器量は私にはないのだが。器量がよくないとそんな豪胆なショートステイが成立しないというのもおかしな話だが、世の中を見渡した感じ、たぶんそうなのだろう。
 海と果実はそもそも遠い。船ができて、遥かなよその国へ運ばれるようになるまで、海の上に果実はなかっただろう。鳥が種を運んだくらいがせいぜいだ。それだって海面からはずっと上空のこと。海辺生まれの私は、そんなわけで果実とはかなり異質なのだと思う。別に今住んでいるこの場所には果樹園どころかそういう樹の一本もないくらいなのだが、人々の暮らしぶりがフルーツっぽいな、と感じる。収穫された果実ではなく、ラッピングされ出荷され売られ買われたフルーツだ。テーブルの上の籠に入っているようなイメージの。お上品に収まっている風なのだ。金があるからどこへでも行けるくせに、ほんとうには旅をできないやつら。というのは私が勝手に断罪しているだけで、どうも根拠が乏しいから、私が旅へ出なければいけないのだ。そういう気がする。たぶん、そろそろなのだと思う。ステイしながら経巡らなくてはだめなのだ。
 だから連れだしてほしい、今すぐに、これからすぐにでも。 2013/03/18




 足音しか聞こえない。君と遊ぶ。夜の校庭で遊ぶ。フェンスの向こう側はローカルの単線だ。もうじき最終の電車が通るだろう、一両きりで。この学校のすぐそばの無人駅に止まり、人を、熱を吐き出すだろう。だけど停車するときに、扉が開くときに、どこかが擦れる音はここまで届かないだろう。校庭には、こんな時間の校庭には、擦れるものなんてひとつもないから。
 君と僕も擦れるもの同士ではない。これまでもそうだったし、これからもずっとそうだろう。電車の中にいつの間にか熱がこもっているように、温かいものって、かならずどこかで擦れたのだ。何とであってもいい、とにかく擦れたものにしか温かさはない。授業のあと倉庫に仕舞われた跳び箱だって、しばらくは温かいだろう。行きずりの手と擦れ合ったからだ。本にカバーや帯がついているのは、その分だけ余計に擦れさすためだ。大抵のものは、本でも、電車の中身でも、ポップコーンでも、運ばれながら擦れていく。動いている間は、なんとか温かいのだ。止まってしまったら、冷え始めてしまう。
 僕と君の足音しか聞こえない。夜の校庭は、にんげんが止まって、そして冷えてゆくのに適切な空間だ。より適切に、より神妙に排熱するために、口にしていいことばは嘘だけだ。じぶんのためにつく嘘、または嘘のための嘘だけしか、ここでは交わすことができない。明日は世界中の砂漠に海の哺乳類が降るとか、鉛のように重たいマシュマロを食べた話だとか、理髪店のスパイラルを逆向きにまわす方法とか、そういう類のことだ。
 からだが冷えてゆく代わりに、嘘はずっと温かい。止まっていても温かいから、これから朝までに放った嘘のうち、お互いが相手のやつで気に入ったのをひとつだけ壜につめて持ち帰る。これが夜の校庭での遊び。これだけの遊びだ。終わったら始発の電車に乗って、それぞれ北と南へ帰る。止まっていても温かいものを膝の上に置いて、そうして運ばれながらすこしずつ擦れながら、帰ってゆくのだ。
 嘘入りの壜はこれまでの分、ぜんぶ出窓に並べてある。
2013/03/15 恋愛お題ったー『「夜のグラウンド」で登場人物が「嘘をつく」、「足音」という単語を使ったお話』




 友人に誘われてカード占いをする。深夜のびっくりドンキーで、客はわたしたちのほかに誰もいない。店員がお皿を洗うかちゃかちゃという音が聞こえてくる。それしか音がしないくらいに静かだ。静かな夜に誰かといると、時間の感覚がくるうというか、このあと店を出たら浦島太郎よろしく100年経っていそうだな、といつも思う。静かな夜にはお互いがお互いの乙姫になって、知らず知らず眩惑しあっているのだと思う。レジのところのやる気のないぬいぐるみやちゃちなおもちゃがだらっと並ぶおもちゃ売り場の品物たちは竜宮城の魚たちだ。みんな黒くてまんまるの目を開いたままにいる。つまりは静かな夜の、底の底がこの場所なのだ。
 まずはカードをノックする。利き手と逆の手にカードの束を置いて、利き手でこんこん、と叩くのだ。それから、一枚一枚に触れながら、すべての絵柄をよく視る。このときの視線の強度が占いの精度に強く影響するのだよ、と友人は念を押す。あたり五キロメートル四方で、今この瞬間にいちばん強い推奨の行為だろう。眠っている人や街の分までぜんぶ集めたような念の押し様である。わたしもなにか厳粛な気持ちになって、みじろぎもせずじっとカードを見つめる。一枚ずつが家の窓みたいだ。内側に見えるもの見えないものいっしょくたに包み込んで隠しているのだ、暗いなかに。
 次にお願いをする。口に出してでも、心のなかででもいいから、「正しい方向に導いてください。」とカードに呼びかけるのだ。それから、よく切って三枚を選ぶ。それぞれが過去、今するべきこと、その結果としての未来、を表すのだそうだ。わたしが引いたのは「音楽」「子ども」「お金」であった。あ、あたっている。どきっとするくらいあたっている。レジ前の売り場のおもちゃたちよ、起きているか。玉手箱を水中で開けるとこうなるのだぞ。つまり、完璧に言い当てられているのに、選択の余地があるってこと。わたしと友人は、「すごいね」「でしょ?」と言い合ってパフェの容器の底に溶けているアイスの成れの果てをぐいっとやる。
 静かな夜である。
2013/03/13




 プリンを食べる。由緒正しきプッチンプリンである。由緒正しきプッチンプリンを由緒正しきお作法で食すのである。プッチンしなければプッチンプリンではないのだから。まっ白なお皿が適切だろう。黄色もカラメル色もよく映える。それから、弾力がよく見えるような気がする。
 大きいプリンにしようか、三個パックのミニプリンにしようか売り場で悩んだが、ミニの方を購った。三個入りなら三回うれしい。近い未来へのささやかな投資である。最初の二つは購入した日とその次の日につづけて食べてしまった。三つ目は今晩をもって賞味期限を迎える。二つ目から数日のブランクを空けての登場である。待っていました。待つと決めて待ったあとのプリンだ、おいしくないわけがないではないか。
 飲み物の用意も欠かせない。もちろん熱い紅茶だ。紅茶がほどよく蒸れる直前にいざ神妙にプッチンである。プッチンせよ、さらば与えられん。何が?この上なく甘い満足感に浸された幸福な時間が、である。ここに至って、幸福な時間とは我が手で降らすべきものとなるのだ。
 ぴったりと容器を皿に押しつけ、爪を折る。ためらってはいけない。プッチン。プッチンされた容器の中では、プリンというぷるぷるの充実体が、ほんの数センチをおもむろにくだる。お皿に接するのと容器を取り去るのがほとんど同時、その瞬間にプリンはぷるぷる運動を解き放つ。すばらしくうつくしい物理現象!神が宿る細部とはまさにこの皿の上であったか。
 匙を差し入れる、いや、プリンに匙を吸い込ませる。匙は内側から断片を掬い取る。高く高く運ぶためだ。そう、高く高く運ぶのだ。一度天へと近づけてから口に入れるのである。それからあとのことはもう述べるまでもあるまい。誰にも邪魔の出来ない時間だ。あとには白い皿が残るだろう。神のぷるぷるであったものの痕跡とともに。夢のようなひとときは去り、われわれは日常へ、次のプリンを購うまでの気高い旅へ、出るのだ。
2013/03/12
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