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付箋とはぐちゃんとルーズリーフの行方

でも兆候で死ぬものでもないだろう、人間は。
  (川上弘美『古道具 中野商店』新潮社 p.169)



 3年ぶり2回目の休学というカードを切りました。10月から実家で暮らしています。もうちょっと大学生します。潜伏期間です。けっこう居直りが板についてきたなと自分では思ってます。
 なんだか急にだばーっと書いてしまって、せっかくなので載せます。あとから恥ずかしくなったらこっそり非公開にもどします。
 
 ☆ 
 
 歌集を読んでいる。息をするように、とは行かないが水中眼鏡を通して水中を見るくらいには透明と混濁の相の子で、これはだいぶ進歩したなあとおもう。水中なのだけれど、えら呼吸でもするように、ずばずば付箋を貼ってしまう。苦手な歌集ならば枚数は極端に少ないし、気に入った歌集で乗ってくるともうどの歌もこの歌もすべて付箋を貼りたくなってしまう。一応、立ち止まって3回以上心の中で音読したら貼る、という基準を設けてはみたものの、基準に添ってさえいれば罪悪感と躊躇を伴わずに貼ってしまえるので、かえってシームレスに貼りまくる。好きなものをじぶんで好きとちゃんと言うのは何より大切であると思うから、なんだかんだいって楽しんではいるが。
 とはいえ目に見える問題が一つあり、つまり付箋の死屍累々である。読みたい歌集を全て買っていたら石油王を副業に据えないと間に合わない、というのは大げさだけど、まあ要するに歌集は一般に高い。いくすぺんしぶ。そんなわけで図書館からせっせと借りてきた歌集を読みつなぐわけだが、なにせせっせと借りて返さなくてはいけないため、すぐに剥がさなくてはいけないのだ、付箋たちを。読みながら立ち止まった歌をマークし、返す前までにノートにそれらの歌たちを書き写す。あまりに短命だけれど、立ち止まる都度書き写していたら歌集を読むときに、なんというかリズムとか気息に障りがあるではないか。だから確かに付箋たちは役目を果たしているのだけれど、それでもやはりはかなくて捨てるのが惜しくて、書き写しては剥がしていった彼ら彼女らが、平たくひらたくおのおのの角度で重なり合っているコロニーのようなものを見ると、かなしくて仕方が無い。再利用しようと考えて机の縁に一度貼って剥がした彼らをストックしたことがあるが、それはそれで貧相な見てくれだった。だから今は泣く泣く捨てている。お寺で供養とかしてくれないだろうか。
 付箋がたまたま小さくてはかなさが目に付きやすいだけだから、他の紙類と差別するのはエゴだよね、と自分でも思う。原稿用紙なんかは平気で書き損じるしな。でもそういえば、僕は大学に入るまで、ルーズリーフを使ったことがない。大学受験の二次試験対策で英語のリンリンことS先生に赤本の添削をお願いしていた折、先生が不在の場合は机の上にノートを置いていったのだけれど、そうするとその回の添削が帰ってくるまでそのノートを使えないわけで、だから添削をルーズリーフで受け付けるっていうのはどうかな、と提案された。たしかにそっちの方が合理的だけれど、当時の僕はなんとなく渋って、先生の方もまあ提案だし君の好きにすればいいよと返してくれて、それまで通りノートを介して添削は続いた。なにしろルーズリーフは使ったことがなかったので、整理癖のない僕はばらばらにして失くしてしまいそうだなとか、今使っているノートの残りがもったいないな、とかいうどちらかというと即物的な理由もあるにはあったと思うが、どうもそっちが主ではないこともまた自覚していた。同級生の、特に女の子たちがルーズリーフを綴じてゆくあのファイルのポップな色彩へと途中から参入するのはためらわれたし、最初から綴じられた一冊だと、いずれその中に記される文字とそれらに随伴する「書いた」ことの証の、積み重ねの重みや結束による力の集中具合が違うような気がしたのかな、あえて言語化すると。そんなオカルトな。
 結局、大学に入ってほどなくしてルーズリーフデビューを果たし、青色半透明なファイルにそれらを綴ってゆく日々が始まり、別にそれは億劫なものでもなく信念に背いている罪悪感を抱かなくてはならないようなものでもなかった。当たり前だけど。ただなんとなく、高校までは最初から綴じられたノートしか使ったことがないことがなにかの誇りみたいに思えた。別に誰にも言ったことないけど。誇りってなんの?純朴さのシンボルだとか言うつもりか、正気か?でも純朴さのシンボルだったら、僕のパッケージングとして対外戦略としておおいに使ってもいいわけだけど、でも誰にも言ったことは、一度もないと思う。そもそも言うほどのことでもないんだけど、でも忘れる程度のことでもなくて。
 今少し思ったのは、高校在学中までの時間の進み方って、ごく連綿としているけれど、大学になったらカリキュラムに決められて動く比率はぐんと減るから、なんとなく一日と次のまた次の一日との結合が弱くなる。そういう点でルーズリーフ的生活時間ととノート的なそれとの境目が、僕の場合にはそこだったのかもしれない。別に不可逆だとは限らないのだけれど。
 閑話休題。
 積み重ねられたルーズリーフや付箋たちの、その薄いからだの集合がかたちづくるちいさな山を見ていると、『ハチミツとクローバー』のはぐちゃんのことを思い出す。はぐちゃんが死ぬときってどんな場所のどんなお墓に入るのだろう。または、入らないのだろう。その「お墓」を思うとき、なぜかあのはかなくも頼もしい紙たちのビジュアルイメージがかぶさってくるのだ。
 精神的なよりどころとしてずっと座右に置いてきたハチクロだけに、その時期によって頻繁に反芻する箇所が違うのだけれど、最近ははぐちゃんの契約のシーンをしきりにおもう。敬虔に、ほとんど祈るくらいのニュアンスでそうする。中学生だったはぐちゃんが、自分というひとりの人格が社会からするとあまりにちっぽけで弱々しいのに、それでも日々を営めるのは、描くということを神さまが与えてくれたからであると気づくそのシーン。そして自分が死ぬときには神さまへこの命をお返しするのだと彼女は胸の中で宣告する。あまりにも気高いと思う。その気高さをようやくじわじわと理解できるようになってきたところなのだけれど。はぐちゃんを介さず僕が直接神さまに同じことを言える日がくるだろうか。でも僕ははぐちゃんではないから、同じやり方で契約をする必要はないのだ。ならどうやって。
 今の僕にわかることは、はぐちゃんが決して描くことに縋りついて拠りかかってすり減らし合ったりしない、ということ。『3月のライオン』の零くんのことばを借りれば、「どちらかが一方的に甘い汁を吸う関係であってはならない(うろ覚えだけど)」のだ。僕の場合は、やっぱり書くことがそれで、その書くことに寄りかかってはいけないし、神さまと契約するというのは別にそれがある種のステイタスになるからするんじゃなくて、そこを履き違えてはだめだ。神さまがくれるのは正解でなくて添削の場なのだし。
 死ぬまでの残りの生きる時間を、ぜんぶ一冊のノートに綴じることができるかなあと思う。そうでありたい。
 ただ付箋の山を両手のひらで確かにしなやかであるように包んでごみ箱へと運び、また歌をよみ継ぐ、そういう日々を今は送っていく。
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